小説家になろう
神封巫女伝
第一章(11)

 アミネは逃げ出せないかと、あたりを見回した。荷物の詰まった背負子は、樫の根元に立て掛けてある。
 体を少し動かした。足の痛みは強く、腫れはずっと増している。とうてい立って身体を支えられそうにはなかった。無理をすれば痛みをこらえて、何歩か走ることはできるだろう。だが、それだけだ。きっとすぐに追いつかれてしまうだろう。
 アミネは痛みに顔をしかめながら、体を横にした。樫の古木の節くれた幹のくぼみは、ちょうどアミネをすっぽりと包み込むようだった。枝の間から見える赤い空と雲。アミネは目を閉じて、風にさゆれる枝の音に耳を傾けた。
 しばらくすると、茂みをかき分ける音が聞こえてきた。ゆっくりと目をあけると、エナイシケの若者が湯気のたつ朱塗りの椀と匙を手に戻ってきたところだった。
「あいにく、容れ物が一つしかないんだ。俺が先に食ってもいいし、あんたが先でもいい」
「椀ならある。そこの背負子の袋から取り出してくれ」
 若者は持ってきた椀を木の節が平らになった部分に置いて、言われた通りにアミネの粗末な椀を背負子から取り出すと、再び茂みの向こうに消えた。
 アミネは若者の置いていった朱塗りの椀を眺めた。湯気のたつ椀は、使い込まれてなおつややかに輝き、まるで磨き上げた石か鏡のようだった。森の柔らかな夕日の光と木々の陰が朱に映し出され、傷さえも滑らかで暖かみのある雰囲気をたたえている。縁のあたりは、使っているうちに少しずつすり減ってきたのだろう。いくつも重ねられた下塗りの黒や濃い朱が、まるで年輪のように浮き出ていた。使い込むうちに生じた変化もそのまま造形となるような、ムラではまず見かけない、細やかな配慮で作られた椀だった。
 がさごそと音がする。あわてて目を閉じ寝ていたようなふりをした。ゆっくりと目を開け、戻ってきた若者から湯気の立つ椀を受け取る。鼻を近づけてみた。木の実の粉に、豆、根菜、香り草。変な臭いは無い。
 その間、若者は少し離れたところで軽く目を閉じ、アミネには分からない言葉でぶつぶつと何かを唱えていた。きっと、食前の祝詞のようなものだろう。
 若者は椀を手にして、食べ始める。
 アミネもイアに感謝を捧げると、粥を口に運んだ。
「うまい……」
 塩の味に香り草が効いている。いや、普段の感覚だと効き過ぎていた。粗野な、きつすぎる、荒々しい味。だが、そのちょっと強すぎる塩味と、香り草の匂いこそ、むちゃをして駆け回り、疲れ果てたアミネの身体がちょうど求めていたものだった。
 ちらりと見やれば、若者は黙って匙を運んでいる。
「……なぁ、その……お前、名をなんという」
 アミネの問いかけに、男はちらりと目を向けただけで、一言の返事もしなかった。ただひたすら、匙を動かす手を早めている。
「あの……。いや……。実は……。なんてことは、ないんだけれど……さっきは、悪かった」


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