小説家になろう
一五八ページ

 一人、俺は思いあぐねている。……目の前で起こっている偶然が、本当に偶然なのかと。

                ○
 俺は人を殺した。数か月前のことだ。
 手をかけてしまったのは、俺の女だ。
 女だった、はずなのだが、なぜかその女のことはよく思い出せない。顔かたちも背格好も。どういうシチュエーションで出会ったのか。なにもかもが(かすみ)にかかったかのように思い出せないでいる。今まで女をとっかえひっかえしてきていても、一度寝た女の顔はすべて覚えているつもりだったし、事実他の女たちの顔を思い出すことができる(なぜか、そうして思い出す女の顔は、揃いも揃って泣き顔なのが困った点だが)。だが、あの女に限ってはほとんど思い出せない。ほのかに覚えていることといえば、あの女が今まで寝てきた女たちとは明らかにタイプが違ったということだけだろう。一言で言えば妙に陰気臭かった。陰気臭い人間なんて女でなくても傍に置きたくないはずなのに、なぜか俺はその女とダラダラした同棲生活を続けていた。
 ともかく、俺はその女を殺してしまった。
 あの女が悪いのだ。あんなことを言いやがるから。
『子供ができたの』
 はっきりとした言葉だった。そして、脅しめいた言葉だった。言葉の端々から、俺のことをがんじがらめにしようという意図が透けているような気がした。自分の腹を見せびらかすようにさする女は、リビングの真ん中に立ち尽くして、俺のことをじっと見つめていた。
 へえ。
 瞬間的に、俺は座卓の上にあるガラス製の灰皿を掴んでいた。煙草の灰が床に落ちるのも気にしなかった。どうせこの後、部屋を大掃除する羽目になる。いや、この瞬間には、そんなクレバーなことは考えていなかった。ただ、目の前にある厄介事を片付けたい一心だった。
 煙草の灰がこぼれ落ちて床を汚してしまった瞬間には、もう俺は殺人者となっていた。
 手に持った灰皿を大きく振り上げ、女の前頭部に向かって振り下ろした。短く悲鳴を上げた女は床に崩れ落ちた。もしかしたら女は何か(うめ)いていたのかもしれない。口をパクパク動かしていたのを覚えている。だが、俺の耳に女の声は届かなかった。ただ、自分の中に響く声の嵐を聞いていた。“お前が悪いんだ”、“お前が悪いんだ”……。そんな、女への呪詛の言葉を耳の奥で聞くばかりだった。
 まるで鯉のように口をパクパクさせる女に、また灰皿を振り落とした。一瞬だけきらりと光った灰皿は、女の頭がい骨をスイカのように砕いた。ぐしゃり、という間抜けた音とともに、凶器の灰皿に蜘蛛の糸のような亀裂が走った。
 血の海がどんどん広がってゆき、フローリングを赤く染めていった。やがて、女はその中に浸されていく。俺は呆然としながら、その光景を見やっていた。
 女は死んだ。俺が殺した。



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